海を渡る唄

月の、冴え冴えと蒼く美しい、しんと静かなこんな夜には、決まって曾おばあさんのお話を思い出します。
手風琴が懐かしい唄を奏でるような、温かで、でもそれでいて何処か切ない声で、おばあさんは、幼かった私に、夜毎枕元で様々なお話を語ってくれたのでした。

楽しいお話、胸躍るお話、可哀そうなお話・・・と、それは沢山の物語がありましたが、中でも特に、私の心にくっきりと影を残したのは、こんなお話でした。


「ある日の事さ」
スタンドのほの暗い灯りの下で、白いレースを編んでいた手を止め、にっこりと微笑ってから、曾おばあさんはそう云いました。
それからふうっと宙を見上げ、こんな風に話し始めたのです。

 

 

 

あたしの友達の北風から聴いた話さ。

北風は、その夜も月が冴え冴えと照らす北の海を吹き渡っていたんだが、ふいに何処からともなく澄んだ音色が聴こえてきてね。それは何とも言えず美しい音で、暫くの間北風はうっとりと聴いていたものの、ふと不思議に思って辺りを見回してみたのさ。
すると、人魚がひょっこり顔を出したので
「今の調べを奏でていたのはお前かね?」と、尋ねてみたところ
「私ではありません。ハーモニカです」
「ハーモニカ? 誰が吹いているのだね?」
「誰が吹いているのでもありません。ハーモニカが自分で歌っているのです。」
「ほう・・・それは不思議な事があるものだ。それで、そのハーモニカは何処にいるのだね?」
「この海の底に」
そう云って、人魚はざぶりと沈んでいった。
そこで北風もその後を追ったところ、成る程、深い深い水の底に、銀色のハーモニカが1つ、涼しく光っていたのだと。

「歌っていたのは、お前かね?」
「はい。私です」
「とても美しい音色だったが・・・しかし、お前はいつから此処にいるのだね?」
北風の問いに、ハーモニカはファランと響く声でこう答えたのさ。
「2ヶ月程前です。私のご主人の小さな男の子が、お父さんと一緒に船でこの海を渡る際、激しい嵐に遭い、船は海に沈んでしまいました。ご主人も、お父さんや他の大勢の人達と一緒に荒れ狂う波間に投げ出され、私はその時、はぐれてしまったのです。──深く、深く、私は1人で海の底へと沈んでいきました。そして、それから唯じっと、横たわっておりました。
「ところが5日前の事でした。お月様が、話しかけていらしたのです。
『お前のご主人だった、小さな男の子の母親が、私に頼んだ伝言がある』
『ありがとうございます、お月様。お母さんは元気でお暮らしでしょうか』
『そう、少しずつだがね。元気になろうとしているところだよ。だが、静かな夜は、一際寂しさが募るのだろう、お前に歌って欲しいと願っていた』
『唄ですか?』
『ああ、唄だ。ハーモニカが大好きだった男の子の為に、今までのように、今までより更に、沢山の唄を歌ってくれるよう、伝えて欲しいと頼まれたのだよ』

「──その日から、私は真夜中になると、こうして歌うようになりました。私の唄が、お母さんの枕元に届いて、温かな夢が見られますようにと願いながら。真夜中のひととき、想い出だけにくるまって、思い切り泣くのも大切な事だと思うのです」

話を終えると、ハーモニカは、又ファラランと歌いだした。
北風はその歌声を聴きながら、胸がきりりと痛んだらしい。それはそうさ、何しろ嵐の晩には、“雨”と一緒に働けるだけ働いたんだからねえ。
それで北風は、夜になると、特に心を込めて、空を渡るようになったのさ。空気が澄んで、ハーモニカの歌声が、ずっと遠くまで聴こえるようにってね。

もし、機会があったら、真夜中に岬まで行ってごらん。
ハーモニカの、細い、澄んだ音色が聴こえるかもしれないよ──

 

 

 

曾おばあさんは、にっこり微笑って、又静かに編み棒を動かし始めました。
北の海の底で歌うハーモニカ──一体、どんな音がするのでしょう。
あれこれと想いを馳せる私を、曾おばあさんは、ゆるやかに微笑いながら見つめるばかりでした。

 

 

 

 

あれから何年もの時が過ぎ、曾おばあさんも、もうこの世の人ではありません。

私は、やがてお嫁に行き、母親となり、いつしか曾おばあさんと同じ位の年になりました。

 

けれども、こうしてひんやりと月の匂う夜には、心は、あの幼い子供の頃へとするりと還っていくのです。

 

そうして、真夜中、こっそりと抜け出して、長いこと佇んでいた岬でも聴くことの出来なかったハーモニカの歌声が、今は一人ベッドの中で、耳に懐かしく響くような気がするのでした──