2012年

10月

27日

海を渡る唄

月の、冴え冴えと蒼く美しい、しんと静かなこんな夜には、決まって曾おばあさんのお話を思い出します。
手風琴が懐かしい唄を奏でるような、温かで、でもそれでいて何処か切ない声で、おばあさんは、幼かった私に、夜毎枕元で様々なお話を語ってくれたのでした。

楽しいお話、胸躍るお話、可哀そうなお話・・・と、それは沢山の物語がありましたが、中でも特に、私の心にくっきりと影を残したのは、こんなお話でした。


「ある日の事さ」
スタンドのほの暗い灯りの下で、白いレースを編んでいた手を止め、にっこりと微笑ってから、曾おばあさんはそう云いました。
それからふうっと宙を見上げ、こんな風に話し始めたのです。

 

 

 

あたしの友達の北風から聴いた話さ。

北風は、その夜も月が冴え冴えと照らす北の海を吹き渡っていたんだが、ふいに何処からともなく澄んだ音色が聴こえてきてね。それは何とも言えず美しい音で、暫くの間北風はうっとりと聴いていたものの、ふと不思議に思って辺りを見回してみたのさ。
すると、人魚がひょっこり顔を出したので
「今の調べを奏でていたのはお前かね?」と、尋ねてみたところ
「私ではありません。ハーモニカです」
「ハーモニカ? 誰が吹いているのだね?」
「誰が吹いているのでもありません。ハーモニカが自分で歌っているのです。」
「ほう・・・それは不思議な事があるものだ。それで、そのハーモニカは何処にいるのだね?」
「この海の底に」
そう云って、人魚はざぶりと沈んでいった。
そこで北風もその後を追ったところ、成る程、深い深い水の底に、銀色のハーモニカが1つ、涼しく光っていたのだと。

「歌っていたのは、お前かね?」
「はい。私です」
「とても美しい音色だったが・・・しかし、お前はいつから此処にいるのだね?」
北風の問いに、ハーモニカはファランと響く声でこう答えたのさ。
「2ヶ月程前です。私のご主人の小さな男の子が、お父さんと一緒に船でこの海を渡る際、激しい嵐に遭い、船は海に沈んでしまいました。ご主人も、お父さんや他の大勢の人達と一緒に荒れ狂う波間に投げ出され、私はその時、はぐれてしまったのです。──深く、深く、私は1人で海の底へと沈んでいきました。そして、それから唯じっと、横たわっておりました。
「ところが5日前の事でした。お月様が、話しかけていらしたのです。
『お前のご主人だった、小さな男の子の母親が、私に頼んだ伝言がある』
『ありがとうございます、お月様。お母さんは元気でお暮らしでしょうか』
『そう、少しずつだがね。元気になろうとしているところだよ。だが、静かな夜は、一際寂しさが募るのだろう、お前に歌って欲しいと願っていた』
『唄ですか?』
『ああ、唄だ。ハーモニカが大好きだった男の子の為に、今までのように、今までより更に、沢山の唄を歌ってくれるよう、伝えて欲しいと頼まれたのだよ』

「──その日から、私は真夜中になると、こうして歌うようになりました。私の唄が、お母さんの枕元に届いて、温かな夢が見られますようにと願いながら。真夜中のひととき、想い出だけにくるまって、思い切り泣くのも大切な事だと思うのです」

話を終えると、ハーモニカは、又ファラランと歌いだした。
北風はその歌声を聴きながら、胸がきりりと痛んだらしい。それはそうさ、何しろ嵐の晩には、“雨”と一緒に働けるだけ働いたんだからねえ。
それで北風は、夜になると、特に心を込めて、空を渡るようになったのさ。空気が澄んで、ハーモニカの歌声が、ずっと遠くまで聴こえるようにってね。

もし、機会があったら、真夜中に岬まで行ってごらん。
ハーモニカの、細い、澄んだ音色が聴こえるかもしれないよ──

 

 

 

曾おばあさんは、にっこり微笑って、又静かに編み棒を動かし始めました。
北の海の底で歌うハーモニカ──一体、どんな音がするのでしょう。
あれこれと想いを馳せる私を、曾おばあさんは、ゆるやかに微笑いながら見つめるばかりでした。

 

 

 

 

あれから何年もの時が過ぎ、曾おばあさんも、もうこの世の人ではありません。

私は、やがてお嫁に行き、母親となり、いつしか曾おばあさんと同じ位の年になりました。

 

けれども、こうしてひんやりと月の匂う夜には、心は、あの幼い子供の頃へとするりと還っていくのです。

 

そうして、真夜中、こっそりと抜け出して、長いこと佇んでいた岬でも聴くことの出来なかったハーモニカの歌声が、今は一人ベッドの中で、耳に懐かしく響くような気がするのでした──



2012年

10月

27日

風の歌声

それは、どこか哀しい唄だった。
甘やかで、懐かしく、それでいて心の奥がきりきりと痛むような、そんな調べが、繰り返しては繰り返す。
遥か彼方で、誰かがしきりと自分を呼んでいる様な、そんな響きを持っていた。

 

男は、その唄にすっかり魂を奪われて、仕事の合間も、食事の時も、眠っている間でさえ夢の中で追い求めた。

美しい宮殿、華やかな宴、バルコニーに立ち、吟遊詩人は詩を詠い、唄を歌う。
楽しい唄、優しい唄、そして最後はいつも決まって<あの唄>だった。

 

 

「吟遊詩人、吟遊詩人。それは何という唄なのだ? お前の作った唄なのかい? それとも、何処か遠い異国の唄なのかしら」

 

 

男は、毎日毎日、唄を聴きに行く。
吟遊詩人の澄んだ歌声は、城の外にまで、その美しい旋律を届けた。
勿論それは、ひどく幽かで、遠い海鳴りを聴く様なものではあったけれど・・・。

目を閉じ、耳を澄ませ、男は流れるメロディーを一心に追うのだった。

 

 

 

けれども。
やがて吟遊詩人は新たな国へと旅立っていった。

 

 

<待っておくれ。どうか、行かないでおくれ。その唄が聴きたい。その唄が聴きたい>

 

 

男は狂おしい気持ちを抑えきれずに、ふらふらと家を出た。風の噂を便りに、吟遊詩人を追って、旅に出てしまった。

 

 

 

残された妻と幼い娘は、それから淋しい毎日を送る事になった。
母親は懸命に働いたが、暮らしは貧しくなる一方で、やがて無理のし過ぎで床についた母親は、それから程なくこの世を去った。
ひとりぼっちになった娘は、それでもいつも朗らかで、町のパン屋に住み込みで働く事になり、そのとびきりの笑顔で、いつでも皆の人気者だった。

 

──唯。

 

一つだけ、みんながどれだけ誘おうとも、唄を歌う事だけはしなかった。
賑やかな祭りの時でさえ、くるくると陽気に踊る事はあっても、貝の様に固く口を閉ざし、唄だけは、決して歌おうとはしなかった。

 

 

 

「唄を歌うっていうのはね、そりゃあ気持ちの良いもんさ」

パン屋のおかみさんは、よくそう言った。

「まあね。あんたの親父さんを連れてっちまったんだから、恨みに思うのも無理はないよ。・・・けどねえ、あの唄は実際、良い唄だったんだよ。どこがどうって、口じゃ言えないけどさ。みんな仕事を放り出して、よくお城の近くへ聴きに行ったもんさ」
「・・・でも」
きっ と結んでいた唇をほどき、娘はやるせない声で応える。
「魂まで盗られてしまったのは、私の父さんだけなんでしょう?」
「・・・そう・・・それはね。確かにそうさ。──だが、死んだお袋さんから聞いていないかい? あんたの親父さんは、この町の人間じゃなかったんだよ」

一語一語、噛み締める様に、ゆっくりとおかみさんは話す。

「記憶をすっかり失くしちまってね。ふらふらになって、この町に辿り着いた旅人だったのさ。あんたの母さんに助けられて、どうにかまともに暮らせる様になったが、名前だって、母さんが付けたものだったんだよ」
「・・・・・・」
「もしかしたら、心の隅っこの方に隠れていた記憶のかけらが、あの唄に呼ばれちまったのかもしれないねえ・・・」

おかみさんの言葉に、娘はふっと息をつく。
心持ち眉根を寄せ、今は朧気な父親の顔を、思い起こそうとするのだった。

 

 

 

 

季節は流れ、娘はいつしかすらりと背の高い、町一番の器量良しとなった。
靴屋の見習いの若者と愛を語り合う様になり、やがてめでたく結婚の運びとなった。


よく晴れた日曜の午後。教会の鐘が高らかに鳴り響く。

紙吹雪が舞う。雪の様に。花びらの様に。


貧しい娘はウェディングドレスを買う事は出来なかったが、とっておきの、空色のドレスを身に纏い、パン屋のおかみさんやら向かいの花屋のお婆さんやらが縫ってくれたヴェールをかぶって、とびきり幸せそうな笑顔を見せていた。

「さあ、今日はめでたい結婚式だ。この特製のウェディングケーキは勿論、焼き立てパン、全部タダだよ。好きなだけ食べとくれ」
威勢の良い声で、パン屋のおかみさんがそう言うと
「わしは一等良い七面鳥を焼いてきたぞ」
「なんの、おいらの所は、新鮮な野菜で作った山盛りのサラダだぜ」
「食べ物さえあればいいってもんじゃないよ。ちょいと、この花を見ておくれな」


教会の隣にある小さな広場で、賑やかなパーティーが始まる。
皿のぶつかる音、ワインを注ぐ音、子供らの歓声、さざめく笑い声。
様々の音が青い空に弾ける。

 

──けれど。

 

宴には欠かせぬ筈の、唄の響きだけはなかった。

 

 

「ねえ。私達くらい幸せな花嫁と花婿は、世界中を探したっていないわね」
「そうだね」

朗らかな娘の言葉に、若者は笑顔で応えたが、彼女の心の奥に沈んでいる重い影を、何とかして払ってやる事は出来ないものかと思案し続けていた。

「おいおい。花婿さんと花嫁さんが、そんな所でじっとしていてどうするね。今日はお前さん達が主役なんだから」
靴屋の親方が二人を呼んだ。
みんなは輪になってゲームを始めるところだった。

 

若者はわざと負け続けた。
めでたく? 最下位となり、何か1つ芸をと言われて、大きく深呼吸をしてからこう言った。

「唄を歌うよ」

娘ばかりではなかった。
その場にいた全員が、はっとして彼の顔を見た。けれども、ためらう事なく若者は歌い始めた。

 

 

 

──それは、遠い昔、この町の人々の心を捉えた唄だった。

 

娘の父親をさらっていった唄だった。

 

 

 

若者にその唄を教えた父親が、いつか一緒になって歌っていた。
パン屋の親父さんが、おかみさんが、靴屋の親方が声を揃える。

 

 

一人、又一人と歌声の輪が広がる中で、娘は、ぎゅっと目を閉じ、両手できつく耳を塞いでいた。

「だめだよ。ちゃんと聴くんだ」
若者の2つの掌が、娘の両手を静かに包んだ。
「僕達はね。ずっと待っていたんだ。それはもう、ずっと長い事ね。だけど、もうそろそろ良い頃だよ。その事は、誰よりも、君が一番知っている筈。──そうだろう?」
娘は、震えながら、ほんの少しだけ掌を外した。
怯えた様に若者を見る。
若者は、小さく微笑って頷いた。

風が吹いた。
はらはらと木の葉が散った。
きらきらと、日の光を浴びて、木々の葉が降り注ぐ。

 

 

「これ・・・この声・・・?」

 

 

ふいにパン屋のおかみさんが空を仰いだ。

 

「そうだ。この声は・・・?!」
地図屋のお爺さんが言った。
皆は一斉に口を閉じた。

 

 

 

さらさらと風が吹く。
青い風の隙間を縫う様に、ゆらゆらと、低い歌声が流れて来る。

低くて、伸びやかで、温かで、どこか哀しげで、いたわる様な、泣く様な、遠い何かを懐かしむ、そんな歌声が、澄んだ青空を涼しく渡っていく。
「・・・お父・・・さん・・・?」
娘が、ぽつりと、呟いた。
「そうだよ。あんたの親父さんだよ」
ほろほろと涙をこぼしながら、おかみさんが言った。

 

 

──それは、どこか哀しい調べだった。
甘やかで、それでいてほろ苦く、あえかな温もりを奏でる唄だった。

 

 

「明日、朝一番で、お母さんのお墓参りに行こう」
若者が言った。
娘は黙って頷いた。

 

 

 

風と共に、歌声が流れていく。
静かに、穏やかに、流れていく。
人々は深く目を閉じ、その場に立ち尽くしたまま、時を忘れて耳を傾ける。

ゆるやかに寄せる波の様に。
仄かに揺らぐ木漏れ日の様に。
歌声は、同じ調べを、繰り返しては繰り返す。

娘の名を呼ぶ様に。
その母の名を呼ぶ様に。

詫びる様に、励ます様に、せつなく、優しく、歌声は通り過ぎていくのだった──